あら!いいね。

全ての価値は人が生み出す。

阿頼耶識から慈悲の瞑想にスイッチする。

20190928

九月は都議選と豊洲問題で明け暮れた。わたしは阿頼耶識から慈悲の瞑想にスイッチした。今まで、四方八方手当たり次第に食い散らかし、道徳を守らないことが成功の証と考え、常に興奮状態にいることが生きていることと実感し、生きがいであった。今も油断すると心が常に興奮状態を欲求する。心は血圧を上げろ、動け、人を論破しろとけしかける。

栄養栄華を極めたソロモンを目指せと心が命じる。

そうして70年生きてきた。

結果、全てを失い、仏教の教えに救いを求める。心経読誦を一年続け、なんか違和感おぼえはじめたころに慈悲の瞑想に出会った。いままで生きてきたことの真逆の考えに出会う。思いが実現していく実感をもつ。生きとし生けるものが幸せでありますようにと念じるとき、そこには大きな平安がある。平安に満たされた幸せのオーラに包まれる。

それで十分なのだが、気が付くと「もっと」というむさぼりが目をさます。いまがそのむさぼりが目をさました時だ。心が落ち着かづ、もっと求めろと欲求が始まる。このむさぼりの気持ちを取り去らなければ私の人生は、これからもつらいものになっていくだろう。

確かに目の前に起きたことを真剣に真摯に取り組むことで、次の課題が見えてくるという。たしかに、その通りだ。目標を決め、目的を決め、それに向かって努力することが必要と子供のころから、なんとなく心の中に入っていたように思う。常に努力しなければという心が動いている。だが、人は、あるいは生き年生けるものは命があるかぎり生きていける。命がなくなれば、いかなる努力をしても生きることはできない。

生まれて、生きてそして死ぬ。生きるものの命はこのように流れている。努力しても努力しなくてもこのように流れる。食う、寝る、排せつする。ここに生きとし生けるもののすべてがある。食う、寝る、排せつする。この三つを常にベストにすうることが人生というきめられた期間を大切にする生き方である。

人生はとてもシンプルにできている。私は今、この三つが上手に運営されている。これ以上の望みは、ただただ毒を作ってしまうだけだ。