その祈り、何のため?
「祈り」という行為が無くなってきた。
初詣、七五三のお宮参り、法事、初七日、、、、。
ことあるたびにお祈りをしてきた。
お祈りは生活の一部になっていた。
が、このところは「困ったときの神頼み」。
お祈りではなく、お願いになってしまった。
息子を亡くしたことから、毎朝仏前で手を合わせている。
これはお祈りではない。供養である。
供養とお祈りの違いは何だろう?
供養は人の幸せを、お祈りは自分の幸せをということなのだろうか?
悲しみも苦難もお金で解決してきたのが20世紀であった。
が、
お金で解決できない問題、むしろお金で解決しようとすると大きなしっぺ返しが起きる。そうした事件がこのところ多発している。
お金は人が作り、お金を考え作った人は、人を管理し、従属させるための道具としてお金を使っていることに問題がありそうだ。
人が作った邪悪なお金という道具を使わなくても暮らせる社会が、人間を含め生きとし生けるものにやさしい環境です。
私たちが忘れてしまった「祈り」という行為が、生きとし生きるものに優しく幸せな環境を与えれくれます。
お金で解決できない問題に取り組むことが、お金の縛りから解放される道では?