あら!いいね。

全ての価値は人が生み出す。

長女のことについて

わたしは彼女のことをどれだけ考え、どれだけ愛しただろう。

声を失ってから何年たったかも覚えていない。

声が出るようにするために、何か協力したこともない。

わたしは、本当に彼女になにもしてあげてない。わたしが彼女からもらったものは沢山ある。ある意味でわたしの人生を支えてくれた。彼女がいなかったら、今の生活は遠い昔に終わりを迎えていた。

どう彼女を愛し、彼女の幸せに協力できるだろうか。

今、毎日洗濯をしてくれ、掃除をしてくれ、そしてつらいだろうに夜のアルバイトに出てくれている。

わたしがどこまで彼女を追い込んだのだろうか。わたしの中に住む“オニ”が人を不幸にするのだろうか。

もし、わたしがいなくなれば彼女は、どういう人生を歩むのだろうか。彼女に輝く人生を取り戻させるには、わたしにできる協力はなにがあるのだろう。

それとも、この家族は、もう壊れてしまったのだろうか。

まだ、お互いを思いやりながら生きていくこと支えあって生きるにはどうすればいいのだろうか。

仕事がうまくはこばないのは、もうすでに私の人生が終わったということなのか。私の人生が終わっているのなら、彼女のこれからの人生のために、私の「生」を与えることはできないものだろうか?

私の「生」を与えるということは、今の私は「死」を選ぶことで、彼女を縛っている「何か」から解放してあげることだろう。

働いても価値を生み出すことができないわたしは、生きていく必要はない。

「彼女の幸せ」に何か協力でき、なにを与えることができるか。今の様態を解決することを目標に生活費があれば、昔よりもっと稼げることを考え、お金に不自由しない生活を与えてあげることができればと、、、、。

だが、この考えのどこかに間違いがあるのだろうか。

生活費が稼ぐ出せないこと、わたしを励まし、ささえてくれた父親がもういないこと。

彼女が生活費について常に心配していること。彼女の声がでるためにわたしができること。20131211記